しばらくホグワーツで学校生活やってた。
グラボへの負荷が高すぎてプロセス落とし直すことが頻繁にあったことには閉口したが、映画っぽさを意識して作り込んでいるところはただただ感動するばかりだったし、ゲームのできもわりと良かった。わたしはハリポタのガチ勢ではないので、ちょくちょく「これなんのこと?」とかの疑問を嫁氏に聞きながらやっていた。
杖がほしいだのマント買いたいだのいってる嫁氏は何かと詳しいので助かっている。

美男美女作れないとお嘆きの向きを結構見かけたが、むしろそういう設計にする工夫をすげー頑張ってやってたのはよくわかった。
おそらく全世界的には、自分の分身的な人物で遊ぶ感覚が大事なんだろうなと。美男美女ばっかりだけどわたしはそうじゃない、みたいな人に寄り添う作りなんだろう、というか。これは人種のバリエーションをこれでもかとやっていたことからも伺える。
結果どうなるかというと、風景は見たことあるホグワーツだが国際都市かなんかなのかというくらいには人種が多様で、その割に「だからマグルは」とか、へぇそこだけは差別残るんだw被害者いないから良いんだwへえwみたいなシニカルな感情も少し出てしまった。

わたしは「イギリスの魔法学校に入学だー」というおのぼりの気分なので、作品中にアジア系の人間が一人も出ていなくたってふしぎに思わんが、世の中はどうもそうではないようで。別にいいけどさ。

余談

まだアマプラの指輪物語も見てない。
そのうち見るけれど、わしの知ってるエルフがそうではないエルフに置き換わった世界が、はたしてわたしの見たい映像だろうかってところで二の足を踏んでいる。面白いかどうかは大事だけど、それ以上に原理主義者チックなところが自分にあるんで心配だ。
わたしの信頼する友人が強く推していたので間違いはないんだろうけど、たとえばめっちゃ顔の平たいエルフが出てきたときに「指輪物語のエルフだー」ってならないで、顔やら人種やら出自やらを理由に狭量な人であるような感覚を味わうのが嫌で、なかなか手が出ないのよ。
みんな北野武とかジャッキー・チェンが「この先は我らエルフの森だ。立ち去れ」とか樹上から言うの許せるの?

徳川家康役をドウェイン・ジョンソンとかトム・クルーズがやってたらなにかの冗談かと思う。
ふさわしい配置っつうもんがあるはずで、それがポリティカルにコレクトレスな定規を当てはめた上でどうのこうのってなるのが、仮にそうではなくても、そう意識せざるをえない時代になっちゃったことがすごく嫌だ。

ポリティカルなんちゃらって言うけどただの繊細ヤクザ、あっちの言葉で言うcrybullingじゃんと思っている。

わたしにとってエルフは白人のチートフェイスばかりをガチガチに厳選して、それこそケイト・ブランシェットみたいなのだけを配役するのがふさわしいと思っている。まあこれを人種差別とかいうやつとは仲良くしようと思わないよ。

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