6~7年ぶりくらいに渋谷で降りて、3人でご飯食べてきた。
出かけるのも人に会うのもめったにないことだから、たいへん楽しみにしていたし、ただただ楽しかった。
友達っていいなあ。
渋谷駅の大改修ちょっと前くらいから来る用事がなくなっていたので、変わりようにびっくり。
埼京線ユーザはもう長い廊下歩かなくていいのね。

しょうもない話から真面目な話まで色々したんだけど、一人がむかし批評家をやっていた頃、批評をしても批判と受け取る人がいて厄介だったよって話が出た。
一方のわたしは批評と批判が違うものであると教えられたことはなかったので、ながらく同質のものであろうと思っていたことを伝えた。
この誤認を教育のせいにするとかではないが、読書感想文を書くとかの段で、じつは教えとかないとだめな概念だったのかなとは思う。
わたしが子供の頃の教師がそれを教えられる人材だったかというと大いに疑問だ。むしろ彼らは当たり障りのない「感想文」を求めたので、そうでない感想文を書くわたしは書き直すよう言われることが多かった。
ご指導はけっこうですが作者は絶対そんな事考えてねえよ、って思ってた。
当時は自分の意見を曲げることへのストレスが高かったので、よく覚えている。
察してちゃんムーブが多すぎて、昭和・平成の教師ってマジで終わってたと思うよ。

批評はあんまり機会もないが、議論も同じようなとこがありそう。
なにかで議論をしている(つもりの)ときに、相手からより良い意見が出たら「そっちのほうがいいね、そっちでやろう」ってのはあることじゃんね。
会社員やってた時分、いい着地点を見つけるために議論をしているつもりだったのだが、わたしが自分の意見を棄却すると
「めんどくさくなったの?」「え、怒った?」
とか言われることが多かった。
言い負かすことを議論だとでも思っているんだろうか、っていう。
これも「議論とはこういうものですよ」って理解が下地にないといけないやつで、最近だとディベートの授業があるとか聞くけれども、なんで議論じゃなくてディベートと書くのか気持ち悪さしかないけれども、現代のお子さんたちがちゃんと議論できる人になっていってくれるのは大変にありがたい。
SNS見てると言い負かすことだけが正義で、曲げたら負けで存在を全否定みたいなノリの風景を見かけることが多くて、あれは不毛だ。
その手の人々を見た瞬間に視界からは消しちゃうから、彼らの行く末は知らないけども。どっかで曲げられる人になってくれるといいですね。

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