料理するのが嫌いではないですが、料理を料理としてではなく、実験の一つとして見ている部分があるのではないかと思っています。
もちろん食べて美味しかったら嬉しい。
が、家事と言うよりは儀式とか実験とか、なんというか、生活に根ざした動作ではなく、少々非現実を味わう時のような、大げさ感のある、そんな、うーんうまくいえない。
もしあなたがテレビで料理番組を見ていて、やおらビビデバビデブーとか叫ぶ料理研究家がいたとしたら、それはあたしか、あたしと似た様な種類の人間だと思います。
#今のところそういう実績も予定もありません

「えーっ、それ作れるの?」
という驚きが、大抵の場合、あたしの導火線になっています。
人間がお酒を作ることができると思っていなかった。
人間がパンを焼くことができるとは思っていなかった。
変な日本語喋ってますよね。
パンや酒を造るのは人間がやっていることです。

が、ここに意識の壁があって、そういうことができる人間というのは、あたしの住んでいる世界とは隔絶した変な空間にいる連中がやることであり、あたしにとってのパンとか酒とかというのは本来、作れるか作れないかという意識以前の世界にあるものでした。神様とか機械あたりから、あたしにはよくわからん何処かから急に湧いて出るものでした。
魚って切り身で泳いでるんでしょという勘違いを笑えない距離感だと思います。

同じにんげんだもの、巧拙あるにせよ、あたしにできないことはないはずである、そう思うことができるようになった途端、色々な食物を見る視点に変化が生じました。
「なんとかすればあたしにも作ることが可能な何か」って視点に立てると、そのへんで買ったお菓子ですら興味深い。
おまけに、よく考えてみれば仕掛けはそんなに難しいものでないものが多い。
なんでこういうものたちに対して、自分じゃ不可能な何かを感じていたんだろうね。
変な万能感を捨てきれずにいる部分があったり、どうでもいいことに自分で制約や限界を設定していたりするところがあって、とても不便な思いをしています。

人間が作っているものなんだったら、作り方があるはず。
作り方がわかれば、あたしにも作れるはず。
さすがに自宅で鉄扉やLSIやヘリコプターを作ろうとか、そういうことを言ってるわけじゃない。
国や時代が違えば、そのへんの人が普通に作っていた料理やお菓子を作ろうというだけのこと。
きっとこんなかんじの思い込みはまだまだいくつもあたしを覆っていて、世界を見る目が曇っていて、すぐ身近にある様々に気づいてさえいなかったりするんだろう。
気づくのがだいぶ遅かった感はありますが、死ぬ直前とかじゃなくてよかった。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です