要旨:上達する方法の研究の場として格ゲーをやるのはよいと思います おわり。

10周ですんでいるのかどうかはわからぬ。
なんか結局、スト5やり始めたばっかの頃の「真面目に取り組んだら中級者くらいにはなるんじゃねー?」とかいう幻想はもはや粉々どころか影も形も質量すらもなく、

いいや、一生オメーは下手の横好き以上の何かにはなれねえ

ってことをよくよく思い知った数年間を過ごしたわけです。すごくかなり思い知った。
※ダイヤあたりのお前が「僕もですよ~」とか言ってきた日には椅子で殴るからな。無差別帯に踏み込んだお前は神に愛されている。無駄に思い知ってねーでランクマいってこい。

莫大なインプットを取りこぼし、取り込んだ記憶もすぐに何処かに消えてしまうフィジカルが根本原因にあるものの、まあそんなんはもはやどうでもよろしい。言い訳や愚痴を書きたいわけではない。

結局わたしにとってスト5ってなんなんでしょうか。
ララとポイズンがかっこかわいいゲームでした。ベガとかカゲもかっこよかったけど動かし方分かんなかったなー。そいえば本田も覚えられんかった。かんたんかんたん言われとるが難しかったよ。
うーん、「いい感じに動いたときは楽しいアクションゲーム」だろうか。
読み合いとかは誓って一度もしなかったから関係ないし、飛ばせて落としたことも数えるほどしかないし、格ゲーの構成要素を満たして遊んでた感はないんだよな。

とにかく点数とかないしアチーブ興味ないし、わかりやすい指標もあるわけじゃないじゃん。ランクとかはあろうけれども、飛びとコマ投げでスパゴル踏めるのは実証済なんで、33%のジャンケン振り回すと一応上にいけちゃう。遅らせグラップもシミーもいらない。つまり運任せで一応踏むこと自体はできると。
するとランクも当てにならん、なにがやった証になるんだろう。

上達論については学んだ気がする

「何かを上手になるときの手法」かなと思っている。
あれこれ上達するための方法を繰り返し試してきた。
頭も固いし覚えるのも大変なくせに、無理して熟達しようとこれほど必死だった数年間をほかで過ごしたことがない。
じっさいに上達もしてくれたら最高だったんだけど。

それでもわずかながら物を覚える手順の構築はできてきた。いや、実際覚えられてるかは微妙だから構築できてるとはいえないのか。すくなくとも仕組みの研究は進んだ。
学問をやりもせず自分に対して延々と実験し、結局は実証されてる理論に徒歩でたどり着いてしまった。あれ、あちこちで書いてあったやつじゃん、やはり再発明おじさんの域を出なかったかーと嘆息することが何度か。
脳の癖を知り、睡眠中の自分に何を残すかってシステムを理解していくプロセスに注目するってのが今のところの着地になった。スピードはともかく、この方法で取り組めば上手になりますよっていう。
たぶんこのへんを小学生とかの時期に会得した子が「器用」って呼ばれるんだろうな。
おじさんになって「器用の回路」を組み始めたスロースタート勢だけども、生きてる間はなんかしら上達できるでしょう。

題名の話

んでなにかというと、格ゲーは上達のサイクルを小さくし、たくさん、ノーリスクノーコストで回す実験場として臨もうと思っている。
スト6は今のとこ「これだ」ってキャラがいないので、上達にフォーカスするしかなさそうって側面があるのは確かなんだけど、なかなかうまくならない趣味を一個持ってるのは悪くないことだよなと。

なので、うまくならないのはもう当たり前のこととして、よりうまくなる方法の洗練をする材料として遊ぶみたいな。
なあ、ただ遊ぶことにそんないろいろ理由つけないとだめか?あたまでっかちか?

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